風土と歴史
笠科郷から片品村へ時はゆっくりと回り続けて・・・
村における人々の暮らしは、遠く4,000年前、縄文時代の中期まで遡ることができます。村内の各地から出土された縄文式土器の破片や築地林根で発見された崖墓、準横穴式住居らしい跡などが、縄文時代中期には人間が片品で生活していたことを物語っています。 |
現在の村の原形ができたのは律令時代です。律令制によって利根郡が置かれ、『和名抄』には利根郡笠科郷(かさしなきょう)という記載がありますが、“笠郷”が転訛して現在の片品になったと伝えられています。この時代から平安時代までに造営されたと思われる古墳もあることから、この地域を支配する豪族が存在したと考えられますが、正史として認められるのは、鎌倉時代の地頭・大友氏まで待たねばなりません。 |
南北朝時代になると日本中に戦乱の嵐が吹き荒れ、蓮根あたりから後に利根一帯を支配することになる沼田氏が台頭し始めました。沼田氏の統治はその後200年にわたって続きますが、沼田城を築いた沼田氏十二代鬼斎顕泰が謀略を起こし、それを契機として、沼田氏は13代で勢力を失うことになります。 その後、関東管領上杉氏、北条氏と支配は変わり、武田氏の家臣真田昌幸が統治、五代にわたり支配を続けるのです。 |
この真田氏の支配のころに関ヶ原の合戦が起こり、村内戸倉には関所が置かれ、以後、明治維新までの間“入り鉄砲出女”を厳しく取り締まるため、重要な役割を果たしました。この間、金井沢金山、タバコ栽培、木工業、養蚕と、片品にはさまざまな産業がおこりました。が、反面、多くの家来を抱える真田氏は財政難におちいり重税を課すなど悪政をしいたため、徳川幕府から領地を没収されました。 |
その後管理は奥平氏に移り、本多氏、土岐氏と支配が続きますが、相変わらず農民は重税に苦しめられ、天明の大飢饉をはじめとする凶作にみまわれるなど、不安な時代のまま明治維新へと突入していきます。 |
そして明治に入ると岩鼻県に編入、明治4年の廃藩置県で群馬県、その後、熊谷県、再び群馬県に編入。さらに明治22年の市町村制施行により連合戸長の合併が行われ、現在の片品村が誕生しました。 このように本村では、特徴ある歴史が連綿と営まれ、同時に『にぎりっくら』や『猿追い祭り』などをはじめとする個性的な民俗風習も育まれてきました。本村では、貴重な文化遺産である歴史・民俗を大切にしながら、毎日の暮らしが続けられています。 |